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南東京特集
川を巡る物語~モノづくりの源流
目黒川と三田用水は東京における産業近代化の黎明期に大きな役割を果たした。現在の目黒川と言えば屈指の桜の名所であり、おしゃれタウンの中目黒や歓楽街の五反田、オフィスビル立ち並ぶ大崎などを横切る。並行して流れていた三田用水は50年前に廃止されたが、その水利を求めて工場が相次ぎ進出していた。世田谷区や目黒区、品川区などにまたがる目黒川・三田用水の流域産業史をひもとくと、川辺から消えた機械の音がまた聞こえてくるようだ。
サッポロビールは2024年4月、プレミアムビール「ヱビス」発祥の地である東京・恵比寿で35年ぶりにビール醸造を再開した。その地こそ、日本麦酒醸造(現サッポロビール)が1890年に工場を設置した場所だ。三田用水や目黒川周辺の豊富な湧き水が立地の決め手だったとみられる。
今回、工場跡地にできた複合商業施設「恵比寿ガーデンプレイス」内に約17億円を投じた。延べ床面積は2544平方メートルで、ビール醸造エリアには130キロリットルの製造能力を持つドイツ製醸造設備を備える。同社の野瀬裕之社長は「ヱビスのルーツの場所で、ビール製造を復活し、新たな魅力を発信することはビール事業にとって大事だ」と醸造再開の意義を強調する。
当時のビールはもちろん瓶入り。ガラスの国産化推進も産業近代化の象徴と言える。1873年、北品川の目黒川沿いにある東海寺境内に日本初の西洋式板ガラス工場が誕生した。その後は官営、経営不振、民営など紆余曲折ありながら、量産にこぎ着けたという。横浜のビール醸造所(現キリンビール)向けに瓶を生産するなど実績を徐々に上げていたものの、経済不況などのあおりを受けて1892年に解散を余儀なくされた。
流域産業史のはじまりに目黒火薬製造所は外せないだろう。1894年からの日清戦争と日露戦争で火薬需要は急速に高まったが、関東大震災の被害や近隣の都市化などに伴って火薬製造所は1928年に当時の群馬県・岩鼻村へ移転した。移転先は日本化薬の高崎工場となり、今でも現役で医薬品を製造している。
三田用水はもともと江戸時代に玉川上水から飲料用途で分水された。その後に農業利用が許可されると、かんがいや、精米・製粉向けの水車に使われた。水車の数は大崎や目黒などに最盛期約50カ所もあったようだ。ただ、目黒火薬製造所などの進出とともに工業利用が増え、農家を含む周辺住民との間で水を巡る衝突が頻繁に起こるようになったと記録されている。
現在の大崎駅周辺はオフィス街の印象が強いが、昔は「モノづくりの街」と呼ばれるほどの工場集積地帯だった。
その代表格が日本初の飛行船をつくった気球製作所だった。1894年に大崎で創業し、2年後にはすでに日本式係留気球を製造していた。それから飛行船をつくり、今の大崎駅東口あたりにあった工場から駒場まで7キロメートルを初めて飛行したという。
1911年には3号機が東京上空一周飛行を成功させた。同社は現在、羽田空港近くに本社を移転。ただ、呑川のほとりにあり、川との縁は変わらず続いている。
明電舎は電動機や発電機事業の拡大に伴い、1913年に大崎に大規模な工場を創設した。もともと東京都中央区発祥だったが、2007年に同社工場跡地の超高層ビルに本社を移転したことで名実ともに「大崎の顔」となった。
日本精工は1914年に創業し、本社工場を大崎に構えた。つまり大崎は日本の軸受(ベアリング)生誕の地であり、戦後の日本が自動車や産業機械で世界トップに登り詰める陰には軸受の存在は欠かせなかった。モノづくりの街・大崎が日本の高度経済成長を支えたと言っても過言ではないだろう。
この夏、目黒川を越えて来たのはニコンだ。本社は従来、品川駅港南口にあったが、7月末に西大井へ移転して新社屋の稼働を始めたばかりだ。徳成旨亮社長は「この地から新たなイノベーションを生み出す。良いハードはできた。これを社員の力で素晴らしい中身にしていく」と意気込む。
移転先は1918年に大井第一工場(現大井製作所)として完成した原点の地だった。双眼鏡や顕微鏡など光学機器の国産化は民生、軍事両面で国家的な課題であり、その基幹部材である光学ガラス製造を目的に大井工場群が次々建てられた。
1948年には小型カメラ「ニコンI型」を発売し、国産カメラ時代の本格的な幕開けとなった。西大井は100年以上、主力拠点であり続け、今では大井製作所に面した通りが「光学通り」と呼ばれるほど地域に根付いている。
カメラ市場で長年ライバルのキヤノンは創業期に、ニコンから光学技術を教わったと言われている。そのキヤノンも目黒と無縁ではない。川沿いではないものの、創業の地とされる目黒区中根には現在も経営幹部向けの研修施設が残る。原点を忘れずに次のキヤノンを導く人材を育てたいという御手洗冨士夫会長兼社長の思いが表れている。
目黒川・三田用水流域は明治以降の産業近代化の主要な担い手となり、戦後の復興、そして高度経済成長を力強く支えてきた。ただ、都市化や為替の円高進行、アジアへの生産移転などが重なり、水辺の風景は様変わりした。
それでも目を凝らせば、活気にあふれていたモノづくりの街の名残をそこかしこに見つけられるだろう。