ライフサイエンス

プラネタリーヘルス―地球の健康と人の健康の両立を目指すライフサイエンスの推進

 ライフサイエンスは人々の生活に直結した「よりよく生きる・食べる・暮らす」の領域での貢献が期待される。特に、わが国においては少子高齢化社会、人口減少社会が到来する中、ライフサイエンスは国民の健康長寿の実現、食料自給率向上や、医薬品・食品産業などの産業競争力強化や新産業創出につながる科学分野として期待されている。また、国際的にも各国が積極的な投資を行い、研究開発競争が激化している。わが国におけるライフサイエンスの基本戦略と市場の展望などについて解説する。

地球の健康なしに人の健康なし

 ライフサイエンスは「よりよく生きる・食べる・暮らす」の領域での貢献が期待されているが、必要な資源は有限であり、持続可能性を考慮することが求められている。

 ここでいう持続可能性を確保するためには、食・栄養、健康・医療などの人の活動においても、温暖化や物質循環など地球全体が抱える課題を捉えながら、「地球の健康なしに人の健康はない」という視点を持ったアプローチが必要である。このような視点に基づいた概念として注目されているのがプラネタリーヘルスである(図1)。

プラネタリーヘルス

 人の活動による地球環境の悪化が進んでいる。地球の限界(プラネタリーバウンダリー)では、窒素とリンの循環、生物多様性の喪失、新規化学物質の環境中へのまん延、が極めて危険な状況にあるとされ、土地利用変化(森林などの農地への転換)と気候変動が不安定な領域とされている。気候変動の原因である温室効果ガス(GHG)排出の23%は農業に由来するなど、これらの危機は農業に深く関係することから、農業の抜本的な改革が必要である。

 医療においては、新型コロナウイルスに対するメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンに加えて、遺伝子治療、細胞治療など新たな治療法が臨床現場に登場した。これらの技術は画期的ではあるが、超高額医療であることから医療費の高騰など、医療保険制度の持続性や医療費負担の公平性という課題を提起している。

 また、食と栄養は人の健康に密接に関連しているだけではなく、地球環境にも大きな影響を及ぼしている。そのため食と栄養に関する課題解決のためには、ライフサイエンスだけではなく、AI(人工知能)などのデジタル技術や人文社会学などを含めた分野横断的な取り組みが以前にも増して求められている。

 このように、人の健康およびそのベースとなる地球の健康を同時に捉えるプラネタリーヘルスの考え方に基づき、相反する事項のバランスを取りながら研究開発を進めていくことが重要になっている。

研究開発の動向

 世界的にライフサイエンスの研究開発への投資は盛んであり、さまざまな分野でイノベーションが起こっている。ここでは、持続可能な地球の健康と人の健康という観点から、GHG排出抑制を目指した「持続可能な農業・食料生産」とデジタル技術を活用した「予防・個別ヘルスケア」について取り上げたい。

持続可能な農業・食料生産

 農業由来のGHG排出としては、家畜消化管内発酵や水田からのメタン排出、農地土壌や肥料などからの亜酸化窒素(N2O)排出が知られている。二酸化炭素(CO2)に比べて298倍の温室効果があるN2Oは、土壌微生物の一種である硝化細菌の活性により生成する。そこで、硝化細菌の生育を農作物が生産する代謝産物により制御することを通じて、N2O排出を抑制しようという取り組みが進んでいる。

 わが国では、このアイデアに沿ってN2O排出を抑制する小麦の育種に成功している。さらに、育種された小麦は肥料を削減しても同じ収量を維持できることから、地球の窒素循環の改善に貢献することが期待されている。

 また、牛肉の製造工程では、牛のゲップなどによりCO2の25倍の温室効果があるメタンが大量に排出される。そのため、欧米を中心に牛肉を植物肉などに代替していこうとする動きが進んでいる。現在トウモロコシや大豆などの農産物の50%以上は畜産飼料として使われていることから、この畜産に依存しない食用タンパク質への変容は世界の農業地図を大きく変貌させながら進展すると予想される。

予防・個別ヘルスケア

 日本においては国の歳出に占める社会保障(医療費)の割合が大きく、少子高齢化が進むとともにその割合は年々増加している。2050年の高齢者人口は37%を超えると予想されることから、医療費の問題は国の最重要課題の一つである。このような中、デジタル技術をベースとした健康・医療データを活用した研究開発は、医療費抑制に貢献すると期待され、急速に進展している。

 特に近年、リアルワールドデータ(RWD)の活用が注目されている。RWDは、医療機関で取得する血液検査や尿検査のデータ、電子カルテのデータなどに加えて、個人がスマートウオッチなどのウエアラブルデバイスなどを用いて取得する消費カロリー、心拍数、睡眠パターン、身体活動など日常的な生理・行動データが挙げられる。RWDを連続的にリアルタイムでモニタリングするウエアラブルデバイスとしては、腕時計型のデバイスや持続グルコースモニタリングのための生体埋め込みデバイスなどが開発されている。

 RWDを大規模に収集して、それをAIなどで解析することにより、人間が認識できない特徴を抽出する。そこから健康状態を把握して、予防や早期診断に役立てようとするデータ駆動型の予防・個別ヘルスケアが世界的な大きな潮流となっている(図2)。

意味の測定

 人間活動に必要な資源は有限であり、地球環境に配慮して研究開発を進めなければならないことに人間が気づき始めた。それに伴い、研究や医療の意味が重視されるようになってきた。1回1億円を超える高額な治療法が登場した状況において、臨床現場では限られた医療資源を有効に活用し、持続性のある地域社会を維持すること、さらに格差の少ない社会を作るためには、意味のある医療が行われる必要がある。

 米国では医療の有効性や質に応じて、保険償還においてボーナスが与えられたり、ペナルティーが課せられたりするが、日本では医療行為に応じて保険償還され、有効性は問われない。少子高齢化と低経済成長のなかで、財政と社会保障システムを維持することは、国の最重要課題の一つである。そのためにも「意味の測定」が必要であり、データに基づいてシステムを制御しなければならない(図1)。

【執筆者】

科学技術振興機構(JST)研究開発戦略センター フェロー(ライフサイエンス・臨床医学ユニット) 小泉 聡司 氏